比治山を歴史さんぽ 旧国鉄宇品線周辺編

日々刻々と姿を変える街並み。その中に残る歴史の痕跡をたどりながら、今の町の成り立ちに思いをはせる「広島のいまとむかし」。国鉄宇品線跡をたどるのも3回目、今回は南段原駅跡、大須口駅跡の周辺を訪れてみます。

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南段原駅周辺の今と昔 
ビルから山へ
エスカレーター

最初にご紹介するのは南段原駅です。

※この地図は、時系列地形図閲覧サイト
「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)
により作成したものです。

左が1950年(昭和25年)の南段原駅周辺、右が2021年現在の同じ場所の地図です。駅の近くに広島女子商業高校(現・広島翔洋高校)があり、それにちなんで開業時の駅名は「女子商業前停留場」だったそうです。

段原南第五公園に南段原駅の駅標と線路の一部、機関車の車輪がありますが、実際の駅はもう少し北にあったようです。

段原地区は1990年代に大規模な再開発が行われました。前回、霞仮庁舎の説明にもあったように比治山が原爆の爆風を遮ってくれたおかげで、この一帯は戦前からの区画が多く残っており、狭い路地が入り組んだ雑然とした住宅地でした。私もこの近くで生まれ育ったのですが、自転車でも道に迷いそうだったのを覚えています。

以下の写真は1986年(昭和61年)、宇品線廃線時の宇品線線路と(恐らく)段原近郊の様子です。

広島駅前から伸びる南北道、平和大通りから延長された鶴見橋の架け替えと比治山トンネル開通によって市街地に直結する幹線が整備され、段原の再開発は軌道に乗ります。

再開発のランドマークとして整備されたのが広島イーストです。

広島イーストは19階建てのオフィス棟と広島初のシネマコンプレックスを併設した商業棟がある複合商業施設です。この場所には1989年(平成元年)まで前述の広島女子商業高校がありました。

広島イーストには他の施設にはあまり見られない特徴があります。それは商業棟から伸びた空中回廊です。道路をまたぐための歩道橋ではなく、回廊は比治山へ続いています。

「比治山スカイウォーク」と呼ばれるこの施設は比治山山頂に続く全長207.4m、高低差37.5mの動く歩道とエスカレーターです。

比治山山中からスカイウォークを見ると、森の中に突如現代的な巨大構造物が現れます。近未来を感じてしまうのは私だけでしょうか。

比治山の今と昔 
山全体にアートと
歴史が点在

比治山スカイウォークを登った比治山山頂を少し紹介したいと思います。

まずは広島市現代美術館です。

1989年(平成元年)に開館した美術館で、名前の通り現代美術や若手芸術家の作品を多く取り扱っています。広島市には他にもひろしま美術館、広島県立美術館があり、1つの街に大規模な美術館が3館も集まっているのは珍しいのではないでしょうか。

現代美術館では規模の大きな作品を美術館周辺の比治山山中に展示しており、周辺を散策するだけでも美術館の雰囲気を楽しむことができます。

もう一つ面白い施設があります。広島市まんが図書館です。

公立のまんが図書館は現時点では全国で唯一ここだけです。前身は1983年(昭和58年)に開設された比治山公園青空図書館でした。

現代美術館と青空図書館は広島市政令指定都市移行を記念した「比治山芸術公園基本計画」の一環として整備された施設で、これらの施設へのアプローチとして比治山スカイウォークも整備されました。

まだ現代美術館もスカイウォークも無かった頃、家族で女子商の脇の坂を登りながらどんぐりを拾い、青空図書館で絵本を借りたことをよく覚えています。

比治山に残る歴史の痕跡といえば「御便殿跡」でしょう。

1894年(明治27年)、日清戦争の開戦に伴い大陸へ出兵する前線基地となった広島に大本営が置かれ、明治天皇と政府高官が移ってきたことで日本の首都機能は事実上広島に集まります。中区基町に仮の帝国議会議事堂が建設され、その裏手に作られた天皇陛下の行在所(休憩所)が御便殿です。

明治天皇は翌1895年(明治28年)には広島を離れられます。その間、御便殿を使用されたのは2日のみで、それ以外は広島城本丸にあった大本営の御座所で過ごされたようです。その後、御便殿は広島市に払い下げられ、建物を比治山に移し観光名所になりました。

御便殿の建物は原爆の爆風で倒壊し、残された石垣等の遺構も「比治山芸術公園基本計画」の整備に際して壁泉に置き換えられたため遺構は残っていません。しかし御便殿跡とまんが図書館がある場所は「御便殿広場」と呼ばれ、その名前を残しています。

比治山は市街地のすぐ近くにあるのに豊かな自然が残されており、公園としても綺麗に整備されているため近隣の幼稚園や小学校の遠足によく利用されます。子どもたちが御便殿広場でお弁当を食べている風景をよく見かけます。休日には家族連れも多く、市民の憩いの場になっています。

大須口駅周辺の今と昔 
曲がった道路は線路跡

最後にご紹介するのは大須口駅です。

※この地図は、時系列地形図閲覧サイト
「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)
により作成したものです。

左が1950年(昭和25年)の大須口駅周辺、右が2021年現在の同じ場所の地図です。近隣の地名は「大洲」ですが駅名は「大須」でした。
現在の大洲通りは海田市~観音本町間の「新広島バイパス」が開通するまでは国道2号線でした。今でも旧2号線という呼ばれることもありますが、古くは江戸時代の西国街道、律令時代の山陽道までさかのぼることができる歴史ある道です。

その道を線路が横切っておりかつては踏切がありましたが、1949年(昭和24年)に道路は掘割になり、線路は架道橋の上を通っていました。旅客線は西側の広島駅へ、貨物線は東側の広島貨物駅へ進むため、大須口駅のすぐ北に分岐のためのデルタ線がありました。

大須口駅は現在の平和橋と球場前交差点の間にありましたが、遺構は全く残っていません。前述の堀割もすでに埋め立てられていますし、以前の平和橋には宇品線の橋梁の橋脚が使われていましたが、2002年(平成14年)に橋の架け替えが完了すると共に撤去されました。

大洲通りを挟んで向かい側にはマツダスタジアムがあります。

2009年(平成21年)にオープンした広島の新たなボールパークは、今や広島を代表する賑わいスポットになりました。スタジアム(及びカープ)の話は紙幅がいくらあっても足りないので、この「場所」についてだけに絞って時間をさかのぼってみます。

マツダスタジアム建設開始時に最初に行われたのは球場の地下に貯水池を建設する工事でした。マツダスタジアムの地下には「大州雨水貯留池」という設備があり、約15,000m³の雨水を貯めることができ、大雨による浸水被害を防いでくれています。またスタジアムの屋根やグラウンドに降った雨も、この施設で処理された後にグラウンドへの散水やトイレの水として再利用されています。大州雨水貯留池は広島市に申し込めば見学することができます

マツダスタジアム建設開始前、この場所は放置自転車の保管場所で、その前は鉄道貨物の貨物ヤードが広がっていました。宇品線が現役の頃、ここには貨物駅である東広島駅がありました。1995年(平成7年)に東広島駅は現在の貨物ターミナル駅に移転し、東広島駅跡地が貨物ヤードになったのです。

現在の貨物ターミナル駅はマツダスタジアムの裏手にあり、貨物の取り扱いを行っています。

貨物線の反対側、旅客線の痕跡は道路の線形として残っています。球場を周回する道路を広島駅側にそれる脇道があります。この道路こそ広島駅へ向かっていた宇品線の線路の痕跡なのです。70年前の地図と見比べると、この道が元は線路だったことがわかります。

今の広島を象徴する場所の傍らで、役目を終えた宇品線はひっそりとその痕跡を残しているのです。

今日の広島は、
明日の広島を形作っている

宇品駅から広島駅までの宇品線の線路の距離はわずか5.9kmでした。歩いても2時間もかからない距離です。そのわずかな距離の中にたくさんの歴史や思い出が積み重なって、今の街並みがあるのです。

時の流れは留まることなく、今日という日も明日には過去になり、これまで振り返ってきた歴史と同じようにこの街を形作る痕跡になっていくでしょう。

今日の広島は、明日の広島を形作っているのです。

※近隣にご訪問の際は、周囲の方への配慮をお願いいたします。

  • 路上駐車をしない(宇品波止場公園入口にコインパーキング有)
  • ゴミは放置せず持ち帰る
  • マスクの着用など感染症防止対策を行い、大人数での訪問を避ける

宇品線

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