猿猴川・京橋川に架かる橋の物語
<広島の橋いくつ知ってる?>
日々刻々と姿を変える街並み。その中に残る歴史の痕跡をたどりながら、今の町の成り立ちに思いをはせる「広島のいまとむかし」。
太田川デルタに広がる広島市には数多くの橋があります。
今回はその中から猿猴川と京橋川に架かる最も古い橋と最も新しい橋の物語 を紹介していきます。

橋の町、広島市
広島市は「3Bの街」と呼ばれることがあります。3Bとはバス(Bus)、支店(Branch)、そして橋(Bridge)のことです。広島市が管轄する道路橋は3,177橋、15m以上のものだけでも777橋あります(平成31年3月31日時点 「広島市橋梁維持管理実施計画」より)。
太田川水系の6本の川が作るデルタ(三角州)に築かれた街には大小新旧様々な橋が架かっています。日頃何気なく使っている橋にも色々な歴史や物語があります。
実は私が生まれ育った広島市南区は、大部分が今回紹介した猿猴川と京橋川に囲まれた地域になります。
太田川デルタの中では最も面積が大きく、家から川までかなり離れているため、子どもの頃は橋を意識することはありませんでした。大人になり行動範囲が広がるにつれて、自転車で橋を渡ろうとすると勾配がきつかったり、冬になると橋が凍結して渋滞に巻き込まれたりしましたが、やはり「橋の町」を強く意識することはあまりありませんでした。

それでも暮らしのてまひまの初代トップ画像(現在もTwitterのトップ画像で使用しています)で使用している画像を見た時、すぐに京橋川に架かる平野橋(国道2号線の橋)だとわかりました。比較的近所だというのもありますが、比治山を借景に川辺の緑、水面の青と橋の赤のコントラストは無意識のうちに脳裏に焼きついていました。
その一部をご紹介していきたいと思います。
猿猴川に架かる橋

太田川水系の最も東側を流れるのが猿猴川です。広島駅前で京橋川と分かれて海田湾近くに注ぎます。
猿猴川に架かる橋(道路橋)は12橋。そのうち2橋が高速道路(広島高速2号線猿猴川大橋と海田大橋)、1橋がマツダの工場連絡用の専用橋(東洋大橋)なので、一般道に架かる橋は9橋あります。上流から順に、
です(リンクはGoogleマップ)。
駅西高架橋は東側の荒神陸橋とセットで「西陸橋」と呼ばれることがありますが、上柳橋東詰交差点からすぐ猿猴川を渡っており、れっきとした渡河橋です(JRの跨線橋部分の方が長いですが)。
この中から今回は「猿猴橋」と「平和橋」を紹介します。
現存する広島市
最古の橋・猿猴橋

広島駅前に架かる駅前大橋から少し下流にある小さな橋が猿猴橋です。
安土桃山時代に現在の場所に木橋が架けられたとされており、江戸時代は西国街道として参勤交代の大名も往来する重要な橋でした。
橋の北詰の町名が「猿猴橋町」であることからも、この橋の重要性を伺うことができます。
現在は駅周辺だけで5本の橋が川を渡っていますが、明治27(1894)年に広島駅ができた頃は猿猴橋1本しかありませんでした。
大正15(1926)年に 鉄筋コンクリートの橋に架け替えられます。その際、欄干には花こう岩を用い、橋名にちなんで二匹の猿が桃を捧げ持つ透かし彫りのレリーフがはめこまれたそうです。
橋の両端の親柱には吉兆を あらわす「二様の鷹」の像が地球儀の上に羽ばたき、中柱にはモダンな電飾灯が付けられた大正ロマン溢れる橋は、西日本一と言われるほどの美しさだったそうです。
しかし戦時中の昭和18(1943)年に、金属類回収令により金属の装飾はすべて供出され、欄干と中柱も石に取り替えられました。
その後昭和20(1945)年に爆心地から1,820メートルで被爆。
広島市に残る6つの被爆橋梁の1つでもあります。
壊滅的な被害を免れた猿猴橋は避難や救援の人々の往来を支えました。
大正期の装飾の復元を望む地元の声もあり、平成27(2015)年 から被爆70周年事業の一環として復元工事が行われ、竣工当時の装飾が再現されました。


現在の橋が架けられてから今年(2022年)で96年。
広島の発展も、荒廃も、復興も見守ってきた猿猴橋。
広島駅に立ち寄った際は、西日本一美しい橋と言われた橋の姿をぜひ見に行ってみてください。
旧国鉄宇品線橋梁の跡に
架かる・平和橋

マツダスタジアム前の球場前(西)交差点を南西に進んだところにあるのが平和橋です。市街地からは離れていますが、スタジアムで試合のある日はユニフォームを着た歩行者で溢れかえります。
以前の宇品線の記事でも少し触れていますが、平和橋は元々旧国鉄宇品線の橋梁だったところに平成14(2002)年に架けられた橋で、現在の平和橋には宇品線時代の橋脚等は使用されておらず全く新しい橋です。
ちなみに「平和橋」という名前は元々鉄道橋梁の脇にあった歩行者専用の人道橋の名前でした。
被爆50年目の節目に優れたデザインのインフラを整備する「ひろしま2045 平和と創造のまち」事業の一環で架けられた橋で、ウッドデッキ風の歩道や橋の中間部には張り出したテラスがあるデザインは建築家の岸和郎氏 によるデザインです。

ちなみに「ひろしま2045 平和と創造のまち」で整備された建築物として、広島市立基町高等学校や広島市環境局中工場があります。
平和橋周辺の川土手や水辺は公園として整備されていて、夕涼みをしながら川辺を歩くのにうってつけのスポットになっています。
公園は一つ上流側にある大正橋のたもとまで続いていて、秋には「猿猴川河童祭り」の会場になります。ちなみに猿猴とは伝説上の河童の一種のことで、猿猴の住む川=猿猴川というのが川の名前の由来だそうです。
京橋川に架かる橋
猿猴川と分岐、南千田町付近で元安川と合流します。
中流域には水辺におりるための階段状の「雁木」が多数残っていて、河川舟運用の雁木群としては全国最大規模になります。
京橋川に架かる橋(道路橋)は16橋。そのうち、歩行者専用橋が2橋(工兵橋、柳橋)なので、一般道に架かる橋は14橋あります。上流から順に、
です(リンクはGoogleマップ)。
東広島橋は駅前通りを松川町交差点から平和大通りに向けて進むとある橋で、場所は広島市ど真ん中ですが「東広島」橋です。
この中から今回は「京橋」と「宇品橋」を紹介します。
川の名前の由来にも
なった、西国街道の
要所・京橋

城南通りに架かる上柳橋、相生通り(いわゆる「電車通り」)に架かる稲荷大橋の間にある京橋は、今でこそ幹線道路から外れていますが、先程の猿猴橋と同様その歴史は古く、毛利輝元の広島城入城の年に最初の木橋が架けられました。
西国街道が通る交通の要衝であっただけでなく、江戸時代は広島藩が防犯を目的に架橋を制限したため、京橋川に架かる橋はこの京橋1つだけだったそうです。そのため京橋が架かる川=京橋川という川の名前の由来にもなっています。
昭和2(1927)年に鋼橋に架け替えられ、これが現在架かっている京橋です。猿猴橋は鉄筋コンクリート製なので、京橋は「広島市で最も古い鋼橋」になります。一見するとコンクリート製に見えますが、鋼橋をコンクリートで覆っているのだそうです。
その後、昭和20(1945)年に爆心地から1,380メートルで被爆。広島市に残る6つの被爆橋梁の1つでもあります。原爆や台風による水害にも耐え、市民の往来を支えてきました。

先述の「雁木」が最も多く見られるのが上流の栄橋から京橋までの区間で、護岸の石垣から川面に降りる階段が並ぶ風景が続きます。
街と港を繋ぐ
ランドマーク・宇品橋

市内中心部と広島港地区を繋ぐために平成12(2000)年に開通した宇品橋。白い大きなアーチが遠くからでも良く見えるランドマーク的な橋になっています。
構造的には京橋川をまたぐ区間がパイプアーチ橋、南千田側が単弦ローゼ橋という2つが組み合わされており、パイプアーチ橋としては日本で初めて「多径間多主構鋼パイプアーチ橋」という構造が採用されています。
橋のすぐ下流で京橋川は元安川と合流しており、河川法上はここが京橋川の河口ということになり、ここから先の広島湾までの区間は元安川ということになります。ちなみに港湾法では一つ上流の御幸橋から下流は広島港の区域になるそうで、宇品橋は「港に架かる橋」ということになります。
御幸橋から宇品橋の下を通り出島付近まで水辺のプロムナードが整備されており、ウォーキングやジョギングをする人も多く、釣り人の姿も見かけることもあります。海が近い汽水域なのでいろんな魚が入ってくるようです。
流れる川面と橋のある風景
猿猴川と京橋川の最も古い橋(猿猴橋・京橋)と最も新しい橋(平和橋・宇品橋)を紹介してきました。子どものころには意識していなかった橋の景色も、意識してみてみるとたくさんの発見がありました。
流れる川面と橋のある風景は、太田川デルタに暮らす広島市民にとって故郷の原風景です。
さて、あなたが知っている橋はいくつありましたか?
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